那覇市の地名 ~若狭町村とは何か?

ばんしゅる

2012年07月21日 21:06





尚巴志による那覇築港後、その商都は那覇と呼ばれるようになった。
続に那覇4町と言う。東村・西村・泉崎村・若狭町村の4ヶ村のことだ。

沖縄では、現在の字に相当する部落域を村と呼んでいた。ちなみに市町村に相当した
行政域は、間切(まぢり)と呼ばれていたのだ。

その中、若狭はなぜか若狭町が部落名であり、村をたっくゎして若狭町村(わかさまち
むら)と呼ばれていたのだ。

民謡唐船ドーイに「若狭町村の瀬名波のタンメー」と言うオジイが出てくるのは有名だろう。
なぜ、若狭だけが、町と呼ばれていたのか?

沖縄では2つの部落名を連称する慣習がある。
例えば、民謡の本部ナークニーに出てくる真謝・兼久(まじゃがにく)。これは、名護にある
兼久と区別する為に本部の兼久の方には、隣の部落の真謝をたくわして呼称した事による
のだ。
ちなみに名護の兼久は、大兼久(うふがにく)と呼んで、区別した。

そこで画像のビルの壁面を見て欲しい。若松市場とある。
廃れた雰囲気を醸し出しながらも、数件の町屋小の入っている公設市場だ。

今尚、若狭大通の南側では、「若松」を称するビルや屋号を目にする。
若松の「松」は、松山の事に違いない。連称の慣習による物なのだろう。

松山は、正式には松尾山と言う。
ところが、すぐ近くに松尾と言う地名がある。楚辺の山並みの麓の部落だ。

若松とは、この楚辺の松尾と区別するために若狭松尾と読んだ名残なのに違いない。
この若狭松尾を方音で読むと「ワカサマチュー」になる。

つまり若狭町とは?
「ワカサマチュー」の当て字なのである。

ちなみに今の松山は、松尾山の麓=下と言うことで、松下と呼ばれていた。
ダンスクラブ松下などで、屋号としてその地名は残っている。

松尾山を境に北は若松。南は松下と区別していたのである。



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