てぃーだブログ › 沖縄の地名・方言

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2012年07月25日

那覇市の地名 ~若狭市営住宅





若狭の市営住宅の解体が決まったらしい。
ソースは、とまりん売店のオバー(笑)

売店にニラジューシーおにぎりを納品している業者が早々に移転したらしい。
このおにぎりは僕の一押し惣菜だ!安定供給が、ままならなくなったのは死活問題だ。

この市営団地は、那覇市にとって戦後復興の象徴になるようにとかなりの予算が注ぎ
込まれた。50年代の市制だよりでは、埋め立てから建設の様子を逐一、報告されてい
る。

この埋め立ては、現在の若狭3丁目と前島3丁目全体に渡る大規模のものであった。
戦前、夫婦瀬(みーとぅじ)と呼ばれた干瀬とイノーと現在のとまりん付近にあった塩田
の全てが、埋め立てられたのだ。

画像は市営団地の建設初期のものだ。

右が、前島側。左の緑地は今の若狭公園だ。かつては緑豊かな原始の森だったのだ。
中央の水路は、今の潮渡川。前島と若狭の間の海峡の成れの果てである。

さらに中央の潮溜まりには、夫婦瀬の語源となったノッチ岩の岩礁群が残っている。
この潮溜りは、漁船の船溜りに転用されたのだが、岩礁が結局公園として再度、埋め立て
られたためにただの繋留用の水路になってしまっている。

様々のものが消え去り、様々なものが生まれていると言った状況。

市営団地の跡はどうなるのだろうか?

また内地系のホテルが来るような予感がする。
若狭公園のホームレス達なんか駆逐されるに違いない。

若狭港には国内外の大型客船が、連日やってきている。
また、観光客には見せたくない所を再開発の名で、潰そうとしているのだろう。

ひるまさ変わたるくぬ沖縄・・・・変わりすぎあらに!!?


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Posted by ばんしゅる at 21:51Comments(3)那覇市

2012年07月25日

那覇市の地名 ~若狭の小地名:旭ヶ丘





波之上の東側にある岩礁地帯が、旭ヶ丘だ。
公園になっているが、戦前は只の岩場だった。

が、戦後、波之上宮が再建ままならない中、基地建設などで住む場所を追われた
人々の不法居住地区となり、問題にもなった所だ。

画像は、64年に公園化した際に建てられた観光名所の石碑だ。
波之上宮の再興が、戦後の沖縄人に与えた影響は大きかったのだろう。





ちなみに上の画像は、その除幕式の様子だ。

この旭ヶ丘なのだが、結構、見るべきところが多い。

沖縄では珍しい地蔵菩薩像(和光地蔵)があったり、沖縄戦で殉職した警官の慰霊碑
があったりする。

また、沖縄戦のなか、ギリギリまで新聞を発行し続けた記者達の記念碑がある。
その記者魂から、「紙ハブ」と呼ばれた男達である。

沖縄新報という戦前の新聞の記者達なのだが、彼らは南部で沖縄戦の全てを経験した
らしい。

そして戦後、彼らは沖縄タイムスを立ち上げることとなる。

このあたりの事情は、具志堅政治氏著「紙ハブ小のたわごと」に詳しい。

この旭ヶ丘、戦前は済出寺山と呼ばれていた。
語源は、護国寺と関係していそうなのだが、よくわからない。

でも旭ヶ丘なんて詰まらない名前よりは、よっぽどいい地名だと思う。


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Posted by ばんしゅる at 21:11Comments(1)那覇市

2012年07月25日

コーラー





沖縄では、炭酸飲料のコーラのことを「コーラー」と言う。
外来語を方言化してしまう沖縄人のバイタリティーには、ほとほと関心してしまう。

では何故、わざわざイントネーションを変え、更に語尾を伸ばすことになってしまっ
たのか?これには沖縄の方言事情が深くからんでいるのだ!

何か大袈裟だな(笑)


一銭町屋での童(わらばー)とオバーの会話

ワラバー 「おばー!コーラ!」
オバー  「何買うら?(ぬーこうら?)」
ワラバー 「コーラ!」
オバー  「だから何買うら?」

以下、ループで延々くりかえし・・・・・

何と、標準語発音でコーラと言ったばかりにコーラを手に入れられないと言う
事態が、全島的に発生してしまったのだ。
しかも、会話がループして終わらないと言う(笑)

沖縄人がわざわざコーラをコーラーと言わなくてはならなくなったのが、判る
であろう。方言と外来語の区別するために新たな方言が生まれたのだ!

素晴らしい!!

ちなみに

オバー 「何買う欲しゃや?」
ワラバー「おばー!コーラ買うやびら。」

と会話していれば、コーラーと言う方言は生まれなかったのである(笑)



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Posted by ばんしゅる at 10:01Comments(0)沖縄方言

2012年07月25日

これは三重城か?





三重城の話のついでに・・・

画像は、読谷のむらさき村の隣、galaと言う観光施設のすぐ下のビーチにある。

これは三重城の復元と言うことになっている。
時は、90年代の沖縄ブームの頃。
大河ドラマ「琉球の風」のロケで使うためにわざわざ造られたのだ。

でもこれ、屋良座森城にしか見えないのだが・・・・

三重城に行ったら、一目瞭然なのだが、あそこは干瀬上の岩礁に築かれている。
よって、ガチガチの石垣と言うのは有り得ない。

屋良座森城と言われれば、なるほど本物そっくりだなあと納得いくのだが。

造った奴が悪いのか?

教えた奴が悪いのか?

こういう事を行政はしっかり、訂正してほしいなあ。
あきしゃびよーなー、ちゃーならんくなとぅんどー!!

ちなみに屋良座森(やらざむい)とは?
今の住吉町(那覇軍港と陸上自衛隊の基地内)にあった。
明治までの儀間(ぢーま)村にあたる。

大きく張り出した干瀬の上に土砂が溜り、それなりの土地となり森が出来たが、何分
農地などに転用できない。そういう地を「嫌な地(やなぢ)」と言ったらしい。

屋良座は、このヤナヂの音韻変化による地名に違いない。

玉城の奥武島の裏手に台風でやられたビーチハウスの廃墟がある。
屋良座は、その廃墟ら辺の景観に似た所だったのでは?と思う。




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Posted by ばんしゅる at 09:39Comments(0)読谷村

2012年07月25日

三重城交安消滅記念





三重城の交通安全センターが、解体されて更地になっていた。
老朽化激しい建物だったが、今後、わざわざ免許の更新に豊崎に行く事を思えば
便利だった。何か、味もあったし(笑)

と言うことで、画像は免許センター。
復帰前の雰囲気もあって、いい感じの建物だった。

ところで、この免許センター、通称「こうあん」と呼ばれていたのだが、ずっと公安の
ことかと思っていた。

交通安全協会なので、「交安」だったんだなあ。
今気づいて、慌てて記事の訂正してます(笑)









味があるといえば、周囲に立ち並んでいた代書屋。
なんか、いろいろとボッタクられた記憶がある(苦笑)

空き時間によく行っていた喫茶店も潰れる運命なんだろうなあ。
なんか感慨深い。

眼鏡を忘れた人のために眼鏡のレンタルもしていたとは!ひるまさよ(笑)

ちなみに眼鏡の人は、方言で「眼鏡掛ちゃー(がんちょうかちゃー)」。
一応、方言ブログなので、参考程度に書いてみた(笑)。


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Posted by ばんしゅる at 09:09Comments(0)那覇市

2012年07月21日

那覇市の地名 ~若狭町村とは何か?





尚巴志による那覇築港後、その商都は那覇と呼ばれるようになった。
続に那覇4町と言う。東村・西村・泉崎村・若狭町村の4ヶ村のことだ。

沖縄では、現在の字に相当する部落域を村と呼んでいた。ちなみに市町村に相当した
行政域は、間切(まぢり)と呼ばれていたのだ。

その中、若狭はなぜか若狭町が部落名であり、村をたっくゎして若狭町村(わかさまち
むら)と呼ばれていたのだ。

民謡唐船ドーイに「若狭町村の瀬名波のタンメー」と言うオジイが出てくるのは有名だろう。
なぜ、若狭だけが、町と呼ばれていたのか?

沖縄では2つの部落名を連称する慣習がある。
例えば、民謡の本部ナークニーに出てくる真謝・兼久(まじゃがにく)。これは、名護にある
兼久と区別する為に本部の兼久の方には、隣の部落の真謝をたくわして呼称した事による
のだ。
ちなみに名護の兼久は、大兼久(うふがにく)と呼んで、区別した。

そこで画像のビルの壁面を見て欲しい。若松市場とある。
廃れた雰囲気を醸し出しながらも、数件の町屋小の入っている公設市場だ。

今尚、若狭大通の南側では、「若松」を称するビルや屋号を目にする。
若松の「松」は、松山の事に違いない。連称の慣習による物なのだろう。

松山は、正式には松尾山と言う。
ところが、すぐ近くに松尾と言う地名がある。楚辺の山並みの麓の部落だ。

若松とは、この楚辺の松尾と区別するために若狭松尾と読んだ名残なのに違いない。
この若狭松尾を方音で読むと「ワカサマチュー」になる。

つまり若狭町とは?
「ワカサマチュー」の当て字なのである。

ちなみに今の松山は、松尾山の麓=下と言うことで、松下と呼ばれていた。
ダンスクラブ松下などで、屋号としてその地名は残っている。

松尾山を境に北は若松。南は松下と区別していたのである。



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Posted by ばんしゅる at 21:06Comments(0)那覇市

2012年07月21日

那覇市の地名 ~若狭とは何か?その2





画像は、20年来通う若狭パーラー。
とはいえ、数年前に麺が替わってから、あまり行っていない。うーん。
縮れた平麺の復興を強く望む今日この頃である・・・

さて、若狭の意味なのだが、若狭といえば福井県の旧国名だ。
福井県は、日本海に面し、背後に丹波の山々を背負う。西部一帯は、リアス式海岸で
南北の幅の狭く、東西に細長い県なのだ。

この福井の地勢と若狭は似ている。
若狭は東シナ海に面した東西に長く、背後に松尾山(今の松山公園)を背負っている。

やはり、若狭も素朴に地勢から来た地名ではないだろうか?

若狭の「狭」だが、これは「狭国(さく)」のことに違いない。
大和では、平地の少ない狭い地域に「佐久間」と言う地名があったりする。

同じく沖縄でもサクには、「佐久」の字が当てられていることが多い。
「佐久川(さくがー)」なんて地名の場所は、谷合いの小平野を指すことは既に明らかに
なっている。

若狭の場合、谷間と言う訳ではないが、海岸線に辻原(ちーぢばる)・潮崎(うしゅざち)・
花城(はなぐすく=波之上宮のある断崖)・上ぬ毛(若狭小のある低草地)と高地が、続い
ているのだ。

また、南の松尾山は、今の松山公園・福州園・上ノ蔵(の内兼久山)と広い範囲に及ぶ。

若狭は、この2つの高地に挟まれた狭間(はざま=狭国)なのだ。

では若狭の「若」とは何だろうか?
若と言う字に相当する地形・地勢用語は無いように思う。

そこで「若さ」を国語辞書で調べてみた。
年齢の少ないと言う意味以外にあった!「若さ=未熟な様」と載ってある。
なるほど、これはイフーナーカジャーがするなあ(笑)

若狭を「未熟な狭国」と仮定してみると、どういうことになるのか?

若狭とは、「はっきりサクとは言えない地域」となる。
つまり、「やや狭い地域」と言うことだ。うーん。面白いなあ(笑)

そういえば、福井県もあれだけ南北に狭い県なのに、沖縄や香川・佐賀の
ように小さい県と呼ばれることが無い。

福井県もまた、若狭の名に恥じない「やや狭い県」なのだ(笑)



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Posted by ばんしゅる at 09:07Comments(0)那覇市

2012年07月21日

那覇市の地名 ~若狭とは何か?その1





若狭と言う町が最近、好きな町だ。
若狭大通沿いでは無く、公民館のある中筋(なかすーじ)なのだが、王朝期からある商店街
であり、新旧交じり合った佇まいと街路樹の見事さが堪らないのだ。
この道は、辻(ちーぢ)から夫婦瀬(みーとぅじ)まで続いている。
是非、歩っちゃ歩っちゃして、何がしかの発見をして欲しい。





その若狭も激変の波が激しい。うみそらトンネルの接続道として、若狭中通りが拡張された。
画像は、拡張工事中の頃のもの。

馴染みのある景観が、無くなってしまったのは残念でならない。
泊大橋開通前なんかは、ただの6m道路だったし・・・。

ところで、うみそらトンネルと言う名前だが、もっと何とかならなかったのか?
平仮名で「うみそら」。女子供向けに親しみやすい名前にしました的な、行政の思惑が窺い知
れて、気持ち悪い。

ここは男らしく、「那覇港海底トンネル」と潔く名乗って欲しかった!(笑)

さて、若狭と言う地名の意味だ。
沖縄の地名研究者である宮城真治氏の本によれば、方言の「別しー(わかしー)」から来ている
と言う。

つまり東は今の夫婦瀬橋付近がかつての交通の要所で、海越に泊、南下すれば前島・久茂地
松下に分かれる岐路だと言うこと。

西は、西武門(にしんじょう)にて、北は波之上(なんみん)、南は久米(くみ)、西は那覇港・辻と
言った具合の岐路になっていること。

若狭とは、他地域を結ぶ岐路のある地域、つまり「別しー」のことと言うことらしい。

うーん。地名解明を趣味とする僕としては、ちょっと小面白くない。

次回で、自分なりの考えを構築してみようと思う。



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Posted by ばんしゅる at 08:05Comments(0)那覇市

2012年07月20日

那覇市の地名 ~波之上(なんみん)とは何か?





波之上。方言ではナンミンと言う。

波之上と言う言葉は、当て字だ。海際の断崖上に建てられた神社を波之上宮と名付けた
事から、表記は波之上。読みはナンミンになったに違いない。

ではナンミンとは何か?

普通、ナンミンに行くと言うと、波之上宮とその周辺の町、もしくはソープ街に行く事を言う。
だが、地図上、ナンミンにあたる地名は無い。行政的には、若狭になっている。
波之上宮周辺の一区域に対する通称が、ナンミンなのだ。

波之上宮は、海に突き出た岩崖上に作られた。
今では、周囲は埋め立てられ、人工ビーチになったりして目立たなくなってしまったが、本来
は、干瀬の上に大きく聳え立つ岬状の高地であった。

この高地を花城(はなぐすく)と言う。第一尚氏王朝の頃に波之上宮は出来たのだが、それ
以前から聖地であったのだ。

花城は、本来「鼻城」と表記されるのが正しい。
鼻とは、岬のことで、これは沖縄・大和ともに岬に〇〇鼻と名付けた地名が多数ある。

この鼻が聖地なのは、古くからこの岩崖の周辺には人が住んでいたに違いない。

ナンミンとは、「鼻ぬ前」と言う意味ではないだろうか?

「鼻ぬ前(はなぬみー)」が、「は」が省かれて、ナヌミー→ナンミー→ナンミンと変化したのでは
と思うのだが。

沖縄で場所を説明する時、「前(みー)」はアバウトで便利な言葉だ。
例えば、パレット久茂地は「県庁ぬ前」で説明できる。
どこが後ろで前なのか?と言う説明は要らない。大体県庁ら辺ってことで成り立ってしまうのだ。

って訳で、ナンミンは、波之上宮ではなく、大体岬ら辺のことなのである。




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Posted by ばんしゅる at 22:56Comments(0)那覇市

2012年07月20日

ひるましむん





ある日突然、方言の意味が判ることがある。

例えば、ひるましむん。意味としては、凄い人のことだ。

今、三線.で戦世ぬセンスル節を練習している。曲自体は簡単なのだが、台詞が長い!
しかも早く喋らなくてはいけないので、舌が縺れて上手い台詞回しができないのだ。

この曲の歌詞に「ひるましむん」が出てくるのだが、こないだ歌っている時にフと気づい
てしまったのだ。

「ひるましむん」は、「怯まし者」のこと。
だれもが、思わず怯んでしまう人のことだったのだ。だから凄い人と言う事になるのだ。

うーん。今、考えると何で気づかなかったのか?って感じなのだが、僕はチブルワッサー
なのだ(笑)

そもそも方言を平仮名やカタカナ表記するのは辞めたらどうだろうか?
ひらがなで、「ひるましむん」なんて書かれても、昼行灯みたいな呑気な言葉としか思わ
ないぞ!(笑)

普段、「いやーぬひるまさよ~!」とか言っていたのが何か恥ずかしくなった(笑)

でもまあ、遅くとも、一つ賢くなれたのでよしとしよう・・・・



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Posted by ばんしゅる at 21:57Comments(0)沖縄方言

2012年07月20日

慶良間と美ら海水族館





観光客 「美ら海に行きたいんですけど・・・」
 僕 「ああ!那覇近郊なら西洲辺りかなあ。」
観光客 「???????」

上の会話は、本当にあった会話だ。多分に僕のガンマリが入っているのだが(笑)

どうも観光客や若い沖縄人は、海洋博に行くことを「美ら海に行く」と言う。
美ら海水族館に行く事が、メインになってしまっているのだ。
いまだに「海洋博に行く」と言う僕には、違和感しかない。

美ら海とは?言わずとも綺麗な海と言う意味だ。
観光客が、レンタカーのナビに「美ら海」で検索して、土産物屋からスナックまで、数十
もの検索結果が出て困惑している・・みたいな笑い話もある。

そこで、「ちゅらさん」と言う方言の話である。

とにかく沖縄人たるもの「美ら海」と書かれていたら、「びらうみ」もしくは「みらうみ」と言う
具合に読んでもらいたいものだ。

「はっし!そんな大和人みたいな、読みばっぺいはしないさ~w」
などと言ってはいけない。

美ら海の美は当て字なのをまず、認識しなくてはいけない。
意味としては合っているので始末が悪いのだが、「美」を「ちゅ」なんて読む訳無いのだ!

那覇市の西の沖に慶良間諸島がある。本島近郊の離島では、断トツに綺麗な海を持つ
島々だ。

慶良間はケラマと呼ばれているが、正式な方音はキラマ。
ではキラマとは一体、何なのか?

キラマのキラは、本来、「綺羅」と表記されるのが正しい。
光輝くものをキラリといったり、キラキラ星なんて言う言葉で残っている古語だ。
意味は、その通りに美しいもののことになる。

キラマのマは、間のこと。つまり、地域を意味する。
慶良間とは?美しい所と言う意味なのだ。

この綺羅と言う言葉から、「綺麗」と言う言葉が派生した。
もう一つ、「清らか」と言う言葉も生まれた。

「清らか」・・・普通、キヨラカと読む。
このキヨラカのうちのキヨラが、沖縄では、キヨラ→キユラ→キュラ→チュラと音韻変化し
ていったのだ。

と言うわけで、チュラと言う方言には、「清」と言う漢字をあてるのが真実なのである。

少し、大げさに書いてしまった。
昔からある店などでは、「清らさん」とか「清ら海」と正しい表記の屋号が残っている。
また、美らさんと書いていても、「きゅらさん」とか「きょらさん」と読ませる屋号の店も確か
に残っているのだ。まあ、ほとんどスナックの話なのだが(笑)

美ら海水族館は、国立の施設だ。また、沖縄県の施設でもチュラを「美ら」と表記している。
ここはひとつ、行政機関からまず本来の「清ら」に戻して行ったらどうだろうか。

当て字を読んで、沖縄方言って不思議~!?みたいな事を言う誤解した人が減るだけでも
メリットがあると思うのだが。

「沖縄は、日本文化の古層である」 by喜納昌吉

うーん。名言だ(笑)


 
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Posted by ばんしゅる at 20:50Comments(0)沖縄方言

2012年07月19日

那覇市の地名 ~那覇港周辺 唐船小堀





僕が最強と思う沖縄料理は何か?
と問われれば、迷わずテビチそばと答えるだろう。

テビチ偏愛主義者とも言うべき、僕のお勧めのテビチそばを提供してくれる店。
それが「嶺吉食堂」だ!!

那覇港ターミナルのすぐ目の前にアメリカ世からあるに違いないバラック街としか言い様の無い
一画がある。飲み屋から簡易宿泊所まである前時代的な雰囲気のある町だ。
ここに嶺吉食堂はあるのだが・・。

このバラック街とその南にある太平洋セメント、沖縄製粉は、明治ごろまで、海であった。
渡地と西村の間を流れる水路であり、両地域は3つの橋で繋がれていたのだ。

この水路を「唐船小堀」と言う。読みは方音で、トウシングムイ。
唐船とは?名前通りに中国から来た進貢船のことであり、この水路は、渡地に来た中国船を収
容し、補修・修繕・修理をした所だったらしい。

このことを知った時は結構、驚いたもので、対岸にあった造船施設(通称:スラ場)で行っていたと
思っていたので、以外だった記憶がある。

このトウシングムイだが、西村と人工島である渡地の間の海のことだ。
だが、一般に知られる小堀(くむい)は、主に陸上の水路のことを指す。
沖縄全島いたる所に湧水があるのだが、その湧水を発端とした水の流れをクムイと呼ぶのだ。

例えば、東村の「手長海老小堀(たながーぐむい)」や、泉崎の「仲島小堀(なかじまぐむい)」、
首里の鳥堀町もクムイがあった故に「鳥小堀(とぅんぢむい)」と呼ぶのが正式らしい。

となると、地名的に「唐船小堀」をクムイの一つとする理由が見出せないのだ。

クムイは流れのある水路である!

と今の今まで、考えてきた。が、訂正せねばならない。

クムイは、何らかの使用目的を持った水路なのに違いない。
大和で言う用水路の事なのだろう。

目的は、飲料水でも農業用水・灌漑用水でも構わない。
船の修理目的の水路でも構わないわけなのである。

うーん。今、真面目に思いついてしまった(笑)

民謡「里芋雑炊(ちんぬくじゅうしい)」で、父親がクムイで息子のために田魚(たーいゆ)を捕って
くるというくだりがある。腹下しにターイユはいいのだ!

小堀(くむい)は、沖縄の生活の中に深く根ざしていたものに違いないと思う。

まあ、中国の冊封使が帰る船が無いなんて事態は、王朝はもとより琉球全体を揺るがすことに
なったかも知れないので、この唐船小堀も沖縄人全員の生活にかかっていたと言えないことも
ない。

うーん。奥が深い(笑)



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Posted by ばんしゅる at 22:27Comments(0)那覇市

2012年07月17日

那覇市の地名 ~那覇港周辺 ~渡地





渡地、現在もワタンヂと言う地名で残っている。那覇港ターミナル辺りのことだ。
意味としては、渡りの地のことで間違いないだろう。

しかし、このターミナル。寂れていながらも画像のような物件を発見できる。
いい所だ(笑)

この渡地一帯は、王朝期は人工の島であった。西村の海岸部の干瀬を埋め立てたに
違いない。冊封使の乗る唐船の着いた埠頭は、迎恩亭と呼ばれた辺りだと思う。

渡地には浜もあったようで、どちらかと言うと宮古などの離島の船が着いていたらしい。

民謡「あやぐ」の一説

「宮古から船出じゃち 渡地ぬ前ぬ浜に しぐ走い籠ち(はいくまち)」とある。

宮古から渡地に来た船は渡地の浜にやってくる。船乗り達は、その渡地の遊郭にすぐに
行って、ちゃーくまりーする(笑)と言う意味だ。
とにかく渡地の船着場は当時、ビーチだったらしい。

その浜の近く、今はコンテナや古びた倉庫の並ぶ所。ここらに宮古蔵があった。
宮古からの産物、貢物が貯蔵された所だったのだろう。

ちなみに八重山の船は泉崎に八重山宿があったことから、今のバスターミナル付近にあっ
た前之浜に陸揚げしてたのでは?と思う。





画像は、壷川から泊大橋に抜ける通りが出来る前、那覇漁港と呼ばれたところだ。
埋め立てられて、今はただの駐車場になっているが、当時の面影を残す一画は残っている。
画像の便所なんかは、釣りに来た時に良くお世話になっていたものだ。

王朝期にはここらに硫黄城がったらしい。方音でウオウグスク。
琉球王朝の最盛期。琉球の産物で、もっとも重宝された輸出品が硫黄だ。

まあ、よく判らないが、硫黄城は船に積み出す前の硫黄を貯蔵していたに違いない。
あまりに大切ゆえに蔵ではなく、グスクを建て、ついには聖地になってしまったのだろう。
何か、王朝の貿易に掛ける意気込みを感じられて面白い。

きっと硫黄の神様を祭っていたのだろう。



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Posted by ばんしゅる at 12:23Comments(0)

2012年07月17日

那覇市の地名 ~那覇港周辺 御物城





昨年だったか、全く雨の降らない台風が来た。
そのために潮害がひどく、農作物は勿論、森の木や街路樹さえも枯れるということがあった。
被害にあった方には申し訳ないが、個人的には興味深い出来事だったのは事実だ。

例えば、那覇港沖に見える御物城だ。
グスクの木々が枯れた故にその全貌を見ることができたのだ。
今は那覇軍港の中にあるために一般人はまず立ち入る事のできないグスクなので、その感慨
は一塩であった。

アーチ門や島裾の船着場をはっきりと確認できたのは収穫だ。

御物城は王朝の宝物庫として使われたグスクであり、漫湖に浮かぶ孤島だ。
貿易で手に入った宝物を島に隠すという、言わば宝島であったのだ。
何か、ロマンを感じさせるでhないか!

明治後は、赤瓦の伝統建築からなる風月楼と言う料亭となった。

当時の写真を見ると、高い石垣に一艘ながらも立派な赤瓦家。
島の袂のサバニで、タバコを吸う海人の船頭さんが写っている。
なかなかに風情豊かで、この船頭さんになりたいなあ等と考えてしまう(笑)

一応、地名のブログを名乗っているので、名前の説明をしておく。
大抵のガイド誌を見ると、御物城を「おものぐすく」と紹介している。
が、沖縄人たるものここは、「うむんぐすく」と読んで欲しいものだ。

御物とは、「おんもつ」。つまり宝物(ほうもつ)であるのは、疑いようがない。

ところで、那覇軍港の返還が現実味を持ってきたようだ。
行政は、ここぞとばかりにリゾート風姿(ふーじー)の再開発を目論んでいるようで頭が痛い。
単純に若狭港みたいな大型船のバースに作り直すくらいなら大賛成なのだが・・

御物城は今後どうなるのか?

出来れば、元のしまに戻して欲しい。
その上で石垣を修復し、風月楼を復元してほしいのだ。
そこが、観光客相手のレストランなんかでもいい。船で渡る琉球料理の店なんかいいやし!!
と思う。

更にできれば、浦添ようどれが世界遺産登録を目指しているように琉球王朝の関連グスク群の
一つにでもなって欲しい。

そういう価値のあるグスクであるのは間違いないのだから・・



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Posted by ばんしゅる at 11:09Comments(0)那覇市

2012年07月17日

那覇市の地名 ~那覇港周辺 三重城





三重城は、ロワジールホテルの裏にひっそりとある。
石垣と琉球石灰岩の岩礁に囲まれたかつての海上に聳えるグスクであった。

王朝期は元より、戦後の一時期までここは、那覇港を出る船を見送る場所でもあった。
船上の愛する人に手拭(てぃさじ)を振りつつ涙すると言うドラマが、日々繰り返されて
いたに違いない。人によっては感慨深い場所だったに違いないのだ。

三重城は、那覇港から海上道路で結ばれていた。
四方が海であったのに今では、埋め立てにより南西部の岩礁地帯しか海に面していな
い。まったく、沖縄の埋めたって行政のひどさには参ってしまう。

周囲の石垣は結構、保存されているのだが、本来、三重城の駐車場である場所には、
ホテルの観光客目当てのタクシーが占拠してしまっている。
ホテルの従業員も利用しているようだ。ひどい話だ・・・

とはいえ、グスクの毛(低草地)には、水神様を始め複数の拝所が残り、拝みに来る人も
少なからずいる。海への信仰を持つ者の聖地なのだ。

琉薩戦争時には、砲台としての機能もあった。故に薩摩軍主力は上陸地点に選ばなか
った逸話もある。

だが本来は、海上交通の目印、いわば灯台代わりに利用されていたに違いない。
明治後すぐにここには灯台が建てられ、今も海上保安庁の信号所がある。
海上の要所だったのだ。

そこで三重城の地名の意味を考えてみたい。
以前は、那覇港の入り口で、那覇の海上の先にある事から「前城」が正式な名前だと思って
いた。
マエグスク → メエグスク → ミーグスクと音韻変化したものと思っていたのだ。

だが、灯台代わりの機能とミーグスクの「ミー」について考えている内に考えが変わった。

三重城と対岸の屋良座森城は、どちらも珊瑚礁の地形である干瀬の上に建つ。
簡単に言えば、満潮時に海面下になるリーフだ。

船はその間の船道を通るのだが、この船道は国場川の淡水が、琉球石灰岩のリーフを溶かし
て出来たに違いない。
無論、那覇築港以前から、船の抜け道だったであろう。

その様な船の抜け道を「澪(みお)」と言う。方音では「ミュー」もしくは「ヌー」。
ミーグスクの「ミー」はこの「ミュー」ではないか?

船道を定めるために作られたので、「ミューグスク」。
転じて、ミーグスク=三重城となったのであろう。

機能的にはこっちの解釈のが合っているように思うのだが。



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Posted by ばんしゅる at 10:26Comments(0)那覇市

2012年07月11日

那覇市の地名~辻の小地名:ホートゥ山





辻のソープ街の真ん中、そのまま波之上宮の参道を渡り、若狭の商店街のある中道がある。
その途中、料亭那覇に入る旧門があるのだが、ここがホートゥ山だ。

現在では、辻の遊郭は元より、辻町を形成した言わば開闢の神様が祭られている聖地となっ
っている。が、そこの碑を見るに移転記念とあるので、ここが辻開闢の地と言う訳ではないよ
うだ。

では、ホートゥ山とは何だったのか?

答えは簡単。ここは、遊郭で働く尾類小達(じゅりぐゎーたー)がお参りに来たところなのだ。

尾類小と言えど、アンマーにこき使われ、また恋すれど悲恋に終わり、元よりどんなにエーキ小
(金持ち)になっても満たされないという境遇だったに違いない。
そう言う人生の辛酸を知る女性達が日々通い、願い、祈り、涙した聖地がここなのである。

尾類小と言えど信仰心はあったようで、自らを葬ってくれる寺院が無い故に今の真教寺を共同
出資して建立したという話もある。

では、ホートゥ山のホートゥとは何か?

何か知らないが、琉球史やら地理関係の人は、ホートゥを方言の鳩の事にして、意味を煙に巻く
傾向がある。鳩?何やが?意味くじ判らんさーw
鳩は、ホートゥあらん。ホートやいびんしがw

ホートゥそれは、女性の陰部のことだ。漢字にするなら臍。へそと子宮は繋がっているので、同じ
表記でも問題無いはずだ。

つまりホートゥ山は女性信仰そのものの聖地だったことになる。
ちなみに遊郭に来るモテたい男達も時折、ここに拝みに来ていたらしいw

そういえばお笑い芸人の雨上がり決死隊に蛍原(ほとはら)と言う名前の奴がいる。
蛍なんて雅な漢字を当てているが、本当は女性の陰部のことに違いない。
女性の陰部みたいな原野とは何か?

湿地帯だ!蛍原一族はどこかの湿地帯から出たに違いないのだ!!w

そんなホートゥ山だが、同名の地名が泉崎にもあった。
泉崎の山手といえば、高名な詩人、吉屋鶴(よしやちるー)を生んだ地、仲島遊郭があった所だ。



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Posted by ばんしゅる at 11:13Comments(0)那覇市

2012年07月11日

那覇市の地名~辻の小地名:長浜はどこだったのか?





画像は、辻南公園の一角にある拝所だ。何を祭られているかは判らない。
そこで、明治初期の地図を見てみる。

どうも地図上にある「豚市場」と言う箇所が怪しい。

辻南公園を豚市場に置き換えて、今の地図と比較してみた。

那覇港から泊大橋向けに行くと、左手に沖縄ガスがある。
ここの信号を右折すると、ほぼ辻南公園付近に出るのだ。





右折してすぐ左手に巨大な赤瓦の屋敷がある。かつての料亭であり、戦前は遊廊であったに
違いない。売り地になっているのが勿体無い。この建物自体を誰か保存して欲しいと思う。





辻南公園に続く筋(すーじ)を見てみる。
画像を見ると判るが、左に傾斜しているのだ。で、那覇港方面の西町の倉庫街を見ると、平坦で
あり、辻一丁目と西町2丁目は埋立地だとすぐわかった。

だとするとこの筋は、かつての海岸線に違いない。

再度、明治期の地図を見る。
辻原と呼ばれた三文殊公園の西南に「湯屋の前」と呼ばれる森が海岸沿いにある。
湯屋とは?単純に明治後、大和から入ってきた銭湯のことであろう。辻にあったのだろうか?

その森の南端が豚市場。当時の豚肉(わぁーぬしし)市場であったに違いない。
辻南公園はその跡地だったのだろう。
つまり、最初の画像の拝所は、商売繁盛の神様でも祭っているのかも知れない。

同時に位置的にここが、西村(当時)から続く商業地と辻の遊郭地帯の境界だっただろう。

そして、沖縄ガスから来るこの筋が、かつての海岸線であり、埋め立てる前は「長浜」と呼ばれた
長大なビーチであったに違いない。

三文殊公園辺りの岩礁地帯の奇景、湯屋の前に植えられた琉球松の防風林。
その木々越しに見える赤瓦の遊郭の佇まい。そして、長浜の美しい白砂の浜。

昔を想像するに、きっと美しいところだったに違いない。



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Posted by ばんしゅる at 10:29Comments(0)那覇市

2012年07月11日

那覇市の地名 ~辻(チーヂ)とは何か?





辻・・王朝期から戦前の遊郭地帯であり、今尚、ソープランド等の風俗店やラブホの
密集する妖しげな街だ。

同時に宮廷料理の味わえる料亭やステーキハウス目当てに訪れる食の街だ。
僕のお気に入りの焼肉屋やそば屋も辻にある。侮れない街なのだ。

辻は、方音でチーヂ。交差点や交通の要所の意味の辻と言う漢字が、当てられてい
るが、勿論、この街にはそんな特色は無い。

チーヂとは何か?

辻は浮島の西南部にあたるが、浮島の地形自体が今となっては判り辛い。
で、辻以外にチーヂと呼ばれる所を調べると、何となく意味が判ってきた。

新都心のDFSの目の前に水タンクのある高地がある。
米軍天久住宅地区の返還前からある貯水施設だ。
ここは、シュガーローフと言う名で有名な、沖縄戦の旧軍陣地跡である。

別名は慶良間(きらま)チーヂ。遠望すると、慶良間諸島が綺麗に見える故に付いた
地名らしい。

「慶良間見ゆしが、睫毛見ーらん」と言うことわざがあるが、案外ここで生まれた言葉か
も知れない。

ここで、チーヂを遠望の利く高所だと仮定して、辻の地形に当てはまる所を探してみる。
それが、画像の三文殊公園だ。
明治初期の地図には潮崎(うしゅじゃち)とある。
公園の隣、ホテル街の前、波之上自練まで続く緑地帯は、かつての海岸線だ。

その後ろ、今の料亭ことぶき・ホテルあかね・○屋パーラーのある辺りを辻原(ちーぢばる)
と呼んでいたらしい。
遊郭地は、この辻原よりも南の低丘陵に作られていたのだ。

ところで、○屋のぜんざいは、でーじまーさいびんどー。御試ししょーりよーさいw

と言うことで、辻とは本来、三文殊公園付近の高地を指していたに違いないと思う。
とすると、慶良間チーヂとの共通点の高所が、チーヂの意味になるのだ。

ちなみに浦添市勢理客(じっちゃく=ぢーちゃく)や東風平町の勢理城(ぢーぐしく)あたりも
チーヂと関係ある地名なのではないだろうか?

で、チーヂには、どんな漢字を当てるべきなのか?で悩んでいる。
チーもしくはヂーで、高さを表す漢字が思いつかない。

もしかするとチーヂは頂地(ちょうぢ)の音韻変化?と独断で考えてみたが、判らない。

うーん。まじ判らんしが・・・



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Posted by ばんしゅる at 09:39Comments(0)那覇市

2012年07月08日

赤犬子とは何か?





赤犬子は、琉球民謡の祖であり、琉球王朝最盛期の尚真王の時代に活躍した吟遊詩人
であり、三線の元になった楽器の開発者とも言われている。

赤犬子は「あかいんこ」と読む。その字面から赤犬に育てられた子と言う伝説がある。
琉球史の本では、読谷村楚辺の人物であることから、楚辺の小字「阿嘉」に住む「いん」と
言う人物の子供ではないか?と紹介されている。

ちなみに画像は、赤犬子を祭る赤犬子宮だ。

では、赤犬子の本当の意味を考えてみたい。

赤が「阿嘉」なのは間違いないだろう。
では「阿嘉」とは何か?

慶良間地方に阿嘉島と言う島がある。平地の無い崖地の多い島である。
また、沖縄各地には「赤嶺」と言う地名が多い。峰とあることから山地形であるに違いない。

沖縄には崖地形を指すだろう方言が複数ある。
「かち」「あか」「はんた」などである。

「かち」については、普通に「がけ」の方音であろう。
「はんた」は、バンタ・ハンヂャとも言い、「走ん土(はいんみちゃ=はんぢゃ)」と書くに違い
無いと思う。土の走る所、つまり地滑り地形=崖の意味であろう。

阿嘉と言う言葉にも何か、崖地形の意味が隠されているに違いないと思う。
単に傾斜地と言う意味かもしれない。
ちなみに読谷村楚辺は、字波平(なみひら=はんぢゃ)」にある。

赤犬子の「あか」は崖地の事である。

次に「いん」だ。
沖縄では、海神のことを「うんじゃみ」と言う。海が「うん」になるのだ。
これは、日本古語のようで、大和でも海を「うん」と言う。
高名な真田十勇士の一人、海野六郎は「うんのろくろう」と読む。

「いん」はこの「うん」の音韻変化では?と思う。
海神も地域によっては「いんじゃみ」と呼ぶ。
広島の因島(いんのしま)あたりも、海の島と言う意味ではないだろうか?

そう考えてみると、赤犬子とは?
海端の傾斜地で生まれた子供と言うことになる。

まあ、少なくとも赤犬に育てられたのでは無いだろうw



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Posted by ばんしゅる at 22:29Comments(0)沖縄の人名

2012年07月08日

阿麻和利とは地名である





どの琉球史の本を読んでも、勝連の英雄「阿麻和利(あまわり)」を「天降(あまふり)」の意味
だとの見解を載せている。

ちなみに2chでもそう書かれていたw
まあ英雄に対しての伝説的な解釈に違いないのだが、ここでは阿麻和利の意味を別の角度
で考えてみたい。

僕の実家は、九州の大分県だ。平成の大合併のせいで消滅してしまったが、かつて大分県
南部のリアス式海岸のつらなる地方を北海部郡・南海部郡と呼んでいた。
この海部は「あまべ」と読む。
戦国期までは、海部衆と呼ばれた水軍・海賊の根拠地であった所だ。

また、高名だが、三重県の志摩地方では、素潜り漁をする女海人を「あま」と言う。

元は琉球であった奄美も「あまうみ」の変化と言う説がある。勿論、海の意に違いない。

勝連・奄美・大分南部・三重県志摩の四箇所には、黒潮の当たる所と言う共通点もある。

僕としては、阿麻和利は「海割」と書くのが正しいと思っている。
海に割って出ているもの・・・それは何か?

勝連半島のことだ!

阿麻和利とは、勝連地方そのものの事であり、勝連の王として賜った異名なのに違いない。

一応、勝連按司は代々「あまわり」と名乗っていたと言う説もある。


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Posted by ばんしゅる at 21:45Comments(0)沖縄の人名